Ser.3-1「つい」発したその一言——あなたの言葉は、相手の心と、あなた自身を照らしている

〜テーマ3:『自分の言葉は自分だけのものではない』(第1回)〜

病気や怪我の症状が軽くなれば、気分も楽になる。そのために行くはずの病院ですが、治療とはまったく関係のないところで、患者さんが深く傷ついたり、気分を悪くしたりすることがあります。

目次

症状は軽くなったとしても・・・

その原因の一つは、私たちが発した「言葉」です。そして今回のテーマは、医療現場に限ったことではありませんが、まずは、医療現場で実際にあった3つのエピソードをご紹介することから始めましょう。

①「点滴のこの刺し方、これでいいんですかぁ?」

「……って、私にはっきりと聞こえる声で、若い看護師が先輩に確認しているんです。びっくりしました!だって、もう私の腕には針が刺さっているんですよ? しかも、間延びした呑気な声にさらに絶句。私に聞こえているなんて全く気にしていない様子でした。せめて声を潜めるとか、『患者さんに聞かれたらまずいな』という配慮が少しでも感じられたら、まだ救われたのに……」

②「川島さ〜ん、お熱測りますよ〜」

「看護師さんは可愛らしい声で父に話しかけてくれるんですけど、父はその言い方に『子ども扱いされている、馬鹿にされている』と感じて、とても嫌がりました。無理もないです。ずっと人の上に立って仕事をしてきた人が、突然の病気で歩くことも話すことも不自由になってしまって……。 『自分が惨めで情けない』と娘の私の前でも涙を流すことがあるくらいなのに、保育士さんが子どもに話しかけるようなトーンで接せられると、プライドが傷つき、見下されているように思ってしまうみたいです」

③「今思い出しても腹が立ちます。絶対に許せません」

「『さっさと診察台に上がってくださいよ!』と医師に言われ、まるで叱られているような気分でした。初めて産婦人科を受診したのですから、戸惑って躊躇したって当然でしょ!なぜ私が叱られなければならないんですか?何か悪いことをしましたか? そばにいた看護師だって、無表情な顔で診察台を指差して『はい、ここね』と急かすだけ。本当に無神経です!」

「無神経な一言」は、医療現場だけの話ではありません

例えば、知り合いから「こんな嫌なことを言われた」という話を聞かされたとき、「ひどい話だね!なんて無神経!」と一緒になって怒りを感じる人であっても、「そんな無神経なこと、私は絶対に言わない」と自信を持って言い切れる人は、おそらくいないのではないでしょうか。

これは、病院の中だけに起こることではありません。「人と向き合うすべての場所」で、日々同じようなすれ違いが起きています。

なぜなら私たちは、「頭で理解していること」と「実際にできること」が必ずしも一致しないからです。いけないことだとわかっていても、その時の感情や衝動を抑えきれずに、”つい”やってしまうことがあります。

やってしまった本人が、そのことにまったく気づいていない場合も少なくありません。後から気づいて冷や汗をかくこともあれば、一生気づかないままでいることだってあるでしょう。

私自身、職業柄「自分の発した言葉が相手にどのような影響を与えるか」については、かなり意識的であらねばと思っていますが……やはり、”つい”強く言いすぎてしまったり、”つい”余計な一言を口にしてしまったりして、後から反省することしばしばです。

言ってはいけないとわかっているのに、やってしまう。その一瞬の「気の緩み」や「衝動」が、気づかないところで相手の心を深く傷つけてしまった。今でも思い出すと穴に入りたいくらいの恥ずかしさと反省の痛みが蘇ることがあります。

他者への関心 < 自分の関心事

先ほどの3つの事例は、少し厳しい言い方になってしまいますが、「他者への関心よりも、自分の関心事(都合)を優先させてしまった瞬間」と言えないでしょうか。例えば、

  • 若い看護師は、患者さんの不安よりも「自分の不安を取り除くこと」に必死だったのかもしれません。
  • 語りかけた看護師は、相手の置かれた状況や人生のプライドを想像するよりも、「優しそうに聞こえる声かけをする」という自分の目標で精一杯だったのかもしれません。
  • 医師と看護師は、初めて受診する患者さんのためらいに共感するよりも、「自分の仕事を早く進めたい」という効率を優先させてしまったのかもしれません。

これは、ビジネス現場の経営者やリーダーにも同じことが言えるでしょう。「業績や成果を上げなければ」「業務を時間通りに回さなければ」という焦りや自分の責任感で頭がいっぱいになっているとき、私たちは知らず知らずのうちに、目の前の部下やメンバーを「生身の感情を持った一人の人間」として見ることができなくなってしまう、そんな瞬間が誰にでも起こりうると思います。

ここで言う「他者への無関心」とは、自分とは異なる感じ方や考え方を持った相手が存在することを忘れてしまう状態です。そうなると、自分の言動で目の前の人がどんなに嫌な気分になっていても、気づくことができなくなってしまいます。

それは、あなたの心が発しているSOSサインかもしれません

そしてこのようなことは、特別な悪意から生まれるのではなく、誰にでも、いつでも起こりうることです。

ただここで懸念されるのは、自分が発した言葉を、一番近くで、一番ダイレクトに聞いているのは、他ならぬ自分自身だということです。自分の言葉が放つとげとげしさに、自分自身すら痛みを感じにくくなってしまっている……。

相手への思いやりや想像力が働かなくなっているとき、その裏側には「自分自身の心への無関心」が隠れている場合が少なくありません。

患者さんや利用者に寄り添う対人援助職の方も、重い責任を背負って人を率いる経営者・リーダーの方も、誰かのために心を砕いている人ほど、知らず知らずのうちに自分の心を置き去りにしてしまいがちではないでしょうか?これは私の臨床の経験からの印象です。

そして、他人に優しくなれない、心の余裕がない——それは、あなたの心が限界を迎えている「心の疲労のSOS」かもしれません。

さて次回は、このテーマの続きです。 「自分に直接言われたわけではない」事例を取り上げ「自分の言葉は自分だけのものじゃない」のテーマについて、さらに深く考えてみたいと思います。

目次